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 大和郡山教会は、1955年(昭和30年)8月15日、聖母の被昇天の祝日に献堂されました。初代の主任司祭はヒル神父で、それ以来、マリスト会の神父方の献身的なご尽力のおかげで、今年(2005年)、晴れて50周年を迎えました。
  「『菜の花の中に城あり郡山』―という句は江戸時代の俳句ですが、それに近い田園風景が印象深く記憶に残っています。本当にのどかな郡山でした。砂利道を人力車に乗って教会にこられた信者さんもいらっしゃった」とヒル神父は語っておられます。
  献堂式当時、信徒数は2〜30人でほとんどが登大路にあった奈良教会に通っておられ、地元の郡山の方は、数えるほどだったようです。(ヒル神父)





雲幻寺での慰霊ミサ
 1969年(昭和44年)、「浦上切支丹大和郡山流配者記念碑」が教会の敷地内に建立されました。それまでは毎年11月、当地で亡くなった長崎浦上の流配者のために、ミサを墓のある郡山市内の雲幻寺で行ってきましたが、流配者の子孫の方々から、「教会の敷地に記念碑を」という要望があり移設されました。1969年(昭和44年)11月に完成したときは、古屋司教をはじめ、子孫の方々、県下の信徒たちも大勢集まって厳かな祝別式が行われました。


その当時のミサ風景
 
教会の冬景色 1960年
 
聖堂の改築工事 1970年




 2005年7月17日午前10時、聖堂は「主は水辺に立った」の入祭の典礼聖歌が力強く響き、大塚司教、ウイックス神父、ヒル神父の共同司式による歴史的な「献堂50周年記念ミサ」がおごそかに始まりました。正面最前列の来賓席には、地元自治会の会長さんをはじめ役員の方々、また遠く長崎から出席された「浦上切支丹」の遺族の子孫である深堀さん達が着席。その他、県下の各教会、修道会、幼稚園の関係者、施設の代表者など多数出席、日頃は開放しない小聖堂には、子供たちと家族も見守り、さしもの広い聖堂もいっぱいになりました。
教会中庭での記念撮影に続いて、幼稚園の園庭で祝賀パーティが開催されました。司教の挨拶につづいて、来賓を代表して、上田大和郡山市長は郡山藩へ流された切支丹の歴史に触れられるとともに、「大和郡山は平和の町、教会広報誌『でめきん』の町、私たちの町に平和をもたらす教会として、いつまでも地元のために尽くしてください」と挨拶されました。




 1969年(昭和44年)、「浦上切支丹大和郡山流配者記念碑」が教会の敷地内に建立されました。それまでは毎年11月、当地で亡くなった長崎浦上の流配者のために、ミサを墓のある郡山市内の雲幻寺で行ってきましたが、流配者の子孫の方々から、「教会の敷地に記念碑を」という要望があり移設されました。1969年(昭和44年)11月に完成したときは、古屋司教をはじめ、子孫の方々、県下の信徒たちも大勢集まって厳かな祝別式が行われました。

 JR郡山駅近くの雲幻寺の境内に、お寺には似つかわしくない十字架の印が入った墓碑が建っていました。この墓碑には、大正15年7月建立とのみ刻まれており、誰が建てたかも分からない。建立は住職の話によれば某フランス人という。「墓碑に刻まれた漢字の当て字の霊名から推測するに切支丹迫害に深い同情を寄せた外人神父に相違ない。だとすれば、流配信徒の長崎追放状況をつぶさに大浦天主堂から涙ながらに見送り続け、その後近畿一円の布教活動をされたビリオン神父と確信する。山口県萩市にある切支丹墓地もこの方の購入と管理によって現存する」(流配者の子孫である久保忠八氏が書かれた「大和郡山流配浦上切支丹史」から引用)
 1869年(明治2年)世に言う「長崎浦上四番崩れ」が起こりました。この郡山の地へも14家族86名の信徒が流され、1873年(明治6年)帰郷できるまで苦難にみちた流配生活を克服し、信仰を守り通しました。いま郡山教会に建っている墓碑はこの地で殉教死した4名の方々を祭ったもので、大和郡山市の案内書にも記載され、時折、ガイド片手に一般の方々も訪れています。

 

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